
第32軍司令官牛島満大将をはじめとする司令部が自決した日をもって沖縄での組織的戦闘が終結。沖縄県はこの日、6月23日を「慰霊の日」としています。しかし一方で、司令部が壊滅してもそれを知らされなかった兵士たちは戦闘行為を続けたので、各地で散発的な戦闘が司令部のなくなったあとも続きました。司令官が自決した、あるいは天皇陛下の玉音放送があった…というのは、単なる歴史の事実の一つにすぎず、それらの事実の後にも、各地で戦闘行為が行われて、何名もの尊い命が失われていったというのも、事実なのだと思います。
そういったわけで(かどうかは定かではありませんが)沖縄市では、降伏文書への調印が行われた9月7日を、「市民平和の日」と定めています。太平洋戦争も、日本では玉音放送のあった8月15日を「終戦の日」としているけれど、世界の国々の認識では太平洋戦争が終わったのは、降伏文書に日本が正式に調印した9月2日だということになっています。
戦争の終結に対する考え方の違いを感じます。司令部が壊滅しても戦闘が続いていたら、それはまだ戦争が終結したのだと言わないような気がします。
戦争終結後もアメリカは沖縄を管理し、すぐに始まったアジア、中東の戦争へ軍隊を派遣するための前線基地・中継基として沖縄を自国の統治下において利用しました。
その後沖縄は、日本政府とアメリカ政府との交渉で1972年5月15日、ようやく日本へ復帰しました。本土復帰後もアメリカが沖縄に基地を維持することを条件にした本土復帰でした。そしてその基地問題は今も続いています。
沖縄をアメリカが管理するきっかけになった米軍による沖縄への砲撃は昭和20年3月24日島尻郡玉城村港川方面への艦砲射撃でした。その後、沖縄上陸作戦は昭和20年4月1日から6月23日まで続きました。
砲撃のあと、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の職員生徒297名は、軍の命令により看護要員として動員され南風原陸軍病院の勤務につきました。かの有名な「ひめゆり学徒隊」です。6月18日に突如、「ひめゆり学徒隊」は陸軍病院から突然解散を命じられます。敵がすぐそこまで迫っているというのに、いったいどこへ…。翌19日、第三外科の壕は敵襲を受け、この時看護要員の全生徒の2/3がその場所で最期をとげたそうです。現在のひめゆりの塔は、この第三外科壕跡の上に立っています。ここにはひめゆり平和祈念資料館も併設されています。
このほか沖縄本島南部は沖縄戦の激戦地でもあるため各所に慰霊塔が立てられています。この沖縄戦最大の激戦地であった沖縄本島南部は、沖縄戦跡国定公園となっています。沖縄戦跡国定公園には多くの慰霊施設・慰霊碑・慰霊塔が立てられており、主要なものだけでも100余にのぼるといわれています。
沖縄本島の最南端に位置する喜屋武岬は、目の前に広がる海をアメリカの軍艦で埋め尽くされ、米軍に追いつめられた住民や兵士は行き場を失い、自決するために断崖から次々と身を投げ、海は一面血に染まったといわれます。ここには「平和の塔」が立てられています。
司令官・牛島満中将が司令部壕で自決したことにより沖縄戦終結の地となった摩文仁の丘の沖縄戦跡には平和祈念公園があります。沖縄上陸戦により多くの民間人が犠牲になったという事実は目を背けてはいけないし、戦争により多くの命が亡くなった事実も絶対に忘れてはならないことです。忘れてはいけない戦争を改めて考え、平和への祈りを捧げたい場所です。